児童に関する福祉関係の法律は、障害者や高齢者に比べて戦前から少しずつ整備されてきました。
子どもは守るべき存在であることは誰からも共感される摂理であったからでしょう。
児童虐待防止法などは戦前の1933年にできています。
戦前日本の児童福祉の変遷
1900年 感化法
8~16歳未満の保護者のない浮浪児などに良い環境で養育や教育を提供することで、非行や犯罪を防ぐことを目的とした法律です。
この法律で設置された感化院は、1933年に少年教護法が制定されて「少年教護院」、1947年の児童福祉法で「教護院」、そして1997年の児童福祉法改正で1998年から「児童自立支援施設」に改称されているよ。児童自立支援施設といえば、留岡幸助さんが東京巣鴨につくった家庭学校だね。
1911年 工場法
12歳未満の者の労働禁止、15歳未満の12時間労働と深夜業の禁止などが定められていました。
このころは、小さいころから家計を支える労働力として働きに出る子どもたちが多かったんだね。
1922年 旧少年法
少年の定義を18歳未満としていました。
現在は20歳未満ですね。
保護処分や刑事処分を規定しています。
1933年 旧児童虐待防止法
14歳未満の児童の虐待対応、児童労働の禁止や制限を定めています。
このころの児童は14歳未満だったんだね。
2000年に制定された児童虐待防止法では18歳未満です。
1937年 母子保護法
13歳以下の子を持つ貧困家庭の母を対象に、母子を一体として保護することを目的とした法律です。
戦後日本と世界の児童福祉の動き
1909年 ホワイトハウス会議(アメリカ)
当時のアメリカ大統領だったセオドア・ルーズベルトは、ホワイトハウス会議で「児童は緊急やむを得ない理由がない限り、家庭生活から引き離されてはならない」という声明を出しました。
セオドア・ルーズベルト大統領は、1905年の日露戦争で日本・ロシア間の調停を務め、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力したことで、ノーベル平和賞を受賞しているよ。
1924年 ジュネーブ宣言(国連)
ジュネーブ宣言は、第一次世界大戦で被害を受けた児童の「受動的権利」に関する宣言です。
1947年 児童福祉法@日本
この時点での児童は「保護の対象」とされていました。
児童福祉法には児童虐待の防止について規定されていたため、旧児童虐待防止法は廃止になっています。
1951年 児童憲章@日本
「児童は人として尊ばれる」
「児童は社会の一員として重んぜられる」
「児童はよい環境の中で育てられる」
1959年 児童権利宣言(国連)
ジュネーブ宣言をもとに受動的権利を宣言、能動的権利は明記されていません。
「児童は教育を受ける権利を有する」など。
1989年 児童権利条約(国連)
「受動的権利」と「能動的権利」を保障しています。
これまで受動的権利ばかり謳われてきた児童福祉ですが、「能動的権利」として例えば 「自由に自己の意見を表明する権利」= 「意見表明権」の確保について規定しています。
この児童権利条約の理念は、ヤヌシュ・コルチャックの理念が取り入れられています。
コルチャック先生の人生は、涙なしでは語れません。
1994年 児童権利条約 批准@日本
日本では児童権利条約が国連で採択されてから5年後、やっと批准に至りました。
児童が権利の主体と位置付けられました。
1994年 エンゼルプラン(1994~1999年)
少子化対策として策定された子育て支援計画です。
1990年の「1.57ショック」により本格的に少子化対策が必要であることが認識されました。
エンゼルプランの一環として策定された「緊急保育対策等5か年事業」では、プランをより具体化するために数値目標が設定されました。
日本が児童権利条約を批准した年にエンゼルプランが始まったんだね。
1999年 新エンゼルプラン(2000~2004年)
保育、雇用、母子保健、相談、教育など幅広い項目が盛り込まれました。
2000年 児童虐待防止法
児童虐待防止法は、児童権利条約批准を背景に制定されました。
1933年に制定された旧児童虐待防止法が児童福祉法の制定に伴って廃止されてから、2000年に復活したのです。
児童福祉法で児童虐待の防止が規定されていたにもかかわらず、1990年頃から児童虐待が急増し、再度制定されるに至りました。
それでも児童虐待は増え続け、2020年には年間20万件にも達しています。
2000年 児童福祉法 改正
母子生活支援施設は助産施設と共に利用契約施設となり福祉事務所設置自治体へ申し込んで利用するようになりました。
2003年 少子化社会対策基本法
少子化社会において講じられる施策の基本理念を明らかにし、少子化に的確に対処するための施策を総合的に推進するために制定されました。
この法律の基づいて「少子化社会対策大綱」が制定され、子供・子育て応援プランへと続いていきます。
2004年 子ども・子育て応援プラン(2005~2009年)
エンゼルプランと新エンゼルプランは保育関連事業が中心でしたが、それだけでは少子化を食い止めることはできないとして、国全体で「子どもを生み、育てることに喜びを感じることのできる社会」への転換を目指す施策を打ち出しました。
2012年 子ども・子育て関連三法
児童福祉法と並んで、児童福祉の一角を担う「子ども・子育て支援法」などの関連三法が制定されました。
〇認定こども園法の一部改正法
〇子ども・子育て支援法及び認定こども園法の一部改正法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律
2016年 児童福祉法 改正
児童は「権利の主体」とされました。
児童福祉6人衆
石井十次
石井十次は岡山4聖人のひとりで「児童福祉の父」と呼ばれています。
1887年 岡山孤児院 設立
無制限収容主義を唱え1,000人以上の孤児を受け入れていたそうです。
イギリスのバーナードホームの影響を受けています。
石井亮一
1891年 滝乃川学園 設立
濃尾大地震で孤児を引き取り1891年に孤女学院を創設。
児童の中に知的障害児がいたことから「滝乃川学園」と改称し知的障害児の教育を行い、現在も運営されています。
滝乃川学園の理事長には、あの一万円札の肖像になっている渋沢栄一がいます。
渋沢栄一は、この石井十次や、ことあと出てくる留岡幸助に支援をしていました。
野口幽香
1900年 二葉幼稚園 設立
道端で地面に字を書いて遊んでいる貧困家庭の子供と、裕福な付属幼稚園の園児との間に落差を感じ、貧しい子供たちにも保育をと考えるようになり、森島美根とともに二葉幼稚園の設立に尽力しました。
東京麹町にできた二葉幼稚園は1906年に東京四谷に移転しています。
貧しい子どもの保育事業の先駆者です。
留岡幸助
留岡幸助は岡山で生まれて牧師になった岡山4聖人のひとりです。
彼はアメリカで監獄や施設を視察し、監獄問題を解決するには子どもの教育が必要であるとして感化院の創設を志しました。
感化院とは非行少年や非行少女の保護や教育を行う施設で、現在は児童自立支援施設と呼ばれています。
彼は、不良少年や少女は、幼くして父母を失ったり災害で一家が離散し生活が困窮する等が原因であると考え、「同一の場所に家庭と学校を共存させる」家庭学校を設立します。
児童自立支援施設は全国に50以上ありますが、民間で運営されているのは留岡幸助が設立した東京と北海道にある2つの家庭学校だけで、今でも当時の理念を引き継いで運営されています。
1899年 東京家庭学校 設立
留岡幸助は非行少年の更生施設として東京巣鴨に家庭学校を設立しました。
写真は当時のものです。
現在は、社会福祉法人東京家庭学校となっています。
その後は北海道にも分校を設立しています。
1914年 北海道家庭学校 設立
非行少年の更生施設として北海道家庭学校を設立しました。
現在は社会福祉法人北海道家庭学校となっています。
自然と向き合い「よく働き、よく食べ、よく眠る」という理念のもと、非行少年たちが朝から農作業や酪農に精を出し、バターやチーズが一般販売されています。
糸賀一雄
知的障害のある子どもたちの福祉と教育に一生を捧げた糸賀一雄は「社会福祉の父」とも呼ばれています。
1946年 近江学園 設立
戦後すぐに近江学園を設立し戦災孤児の収容と知的障害児の教育を行いました。
1963年 びわこ学園 設立
東京の島田療育園(1961年)とならんで重症心身障害児施設の先駆けとなりました。
現在は、社会福祉法人びわこ学園として運営されています。
高木憲次
高木憲次は、肢体不自由児療育事業の始祖と呼ばれる人です。
公教育から見放されていた身体障害児を「肢体不自由児」と呼んで、障害児たちに教育の機会を与えて社会に有用な人材になれるようにと訴えました。
彼は東京帝国大学整形外科時代の1916~1918 年にかけて東京の小学校で「手足に不自由のある児童・成人」の実態調査を行いました。この調査によって肢体不自由者が家の中に隠されて学校に通うことができていないことがわかりました。1947年に制定された児童福祉法に肢体不自由児施設が規定されたのは彼の功績です。
1942年 日本初の肢体不自由児施設「整肢療育園」を設立します。
過去問
第29回 問題138
「児童の権利に関する条約」に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選びなさい。
1 第一回ホワイトハウス会議で採択された。
2 日本政府は、この条約を批准するための検討を進めている。
3 児童の権利を、能動的権利と受動的権利に関する節に分けて規定している。
4 「児童とは、20歳未満のすべての者をいう」と規定している。
5 「自由に自己の意見を表明する権利の確保」について規定している。
児童権利条約の特徴は、能動的権利=「意見表明権」が規定されていることです。
選択肢5が正解です。
第30回 問題138
児童が「自由に自己の意見を表明する権利を確保する」と明記しているものとして、正しいものを1つ選びなさい。
1 児童福祉法
2 児童の権利に関する条約
3 児童虐待の防止等に関する法律
4 児童権利宣言
5 児童憲章
能動的権利=「意見表明権」が明記されているのは、児童権利条約でした。
選択肢2が正解です。
第30回 問題137
以下の文章は、障害児福祉の発展に貢献した人物の紹介である。紹介されている人物として、正しいものを1つ選びなさい。
近江学園の創設者。重度の障害児であっても、人間らしく生きていくことが重要であると考え、「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」という言葉を通して、人間尊重の福祉の取組を展開した。
1 石井亮一
2 高木憲次
3 糸賀一雄
4 福井達雨
5 留岡幸助
こんな問題が多ければ努力が報われやすいですね。近江学園を作ったのは糸賀一雄でした。
答えは選択肢3です。
第19回 問題103
以下の文章は、著者自身が行ってきた実践の内容について記述したものである。この文章の著者として、次のうち、正しいものを一つ選びなさい。
人間社会で悪くなった者を人間の多い社会で善くするという事は極めて難しい…。…葱は不良少年に作られたからというて、汝が作るのだから成長してやらないとは申しますまい。不良少年といえども正直に労働さえすれば必ず良く出来るに違いない。そこで不良少年は考えるであろう、人間は我を不良少年として取り扱うけれども、馬鈴薯は葱は我を不良少年と見て居らぬと見える、いかんとなれば骨折りて労働さえすれば馬鈴薯も葱も良く出来ると、しかして…不良少年も大いに面白味を感じて仕事に精を出すようになります、これがすなわち自然の感化であります。
…私は同じ主義方針で巣鴨の地で少年を教育しましたが、…自然の背景の下で少青年を教育してみたいというので、北海道…の原生林に一千町歩の土地払い下げを出願し、ついに大正3年7月の下旬移住することにしました。
(注)日本図書センター発行の「人間の記録」シリーズの約82巻より抜粋。なお、原典である『自然と児童の教育』(大正13年刊行)の文章が一部変更されている。
1 石井十次
2 石井亮一
3 野口幽香
4 留岡幸助
5 高木憲次
この文章で、感化教育とはなにかが分かるでしょう。子どもたちは自然から感じ取り、感化されていくのです。自然は最高の教育者であり、集団から異端視された不良少年たちを集団の中で更生していくのは難しいという考えは至極真っ当だと思います。今から100年以上も昔にこのような考えに至っていた留岡幸助はすごい。選択肢4が正解です。
第28回 問題137
日本の児童福祉の歴史に関する次の記述のうち,正しいものを1つ選びなさい。
1 恤救規則では、15歳以下の幼者について、人民相互の情宜に頼らず、国家が対応すると規定した。
2 石井十次は、イギリスのベヴァリッジ(Beveridge,W.)の活動に影響を受けて岡山孤児院を設立した。
3 工場法では、18歳未満の者の労働時間を制限することを規定した。
4 児童虐待防止に関する最初の法律は、第二次世界大戦前につくられた。
5 児童憲章は、児童の権利に関するジュネーブ宣言を受けて制定された。
1 恤救規則では、15歳以下の幼者について、人民相互の情宜に頼らず、国家が対応すると規定した。
間違いです。
恤救規則では、13歳以下の幼者や70歳以上の労働不能者が対象でした。
さらに、相互の情誼に頼ることが原則でした。
2 石井十次は、イギリスのベヴァリッジ(Beveridge,W.)の活動に影響を受けて岡山孤児院を設立した。
間違いです。
石井十次が岡山孤児院の創設者であることは正しいですが、影響を受けたのはイギリスの孤児院であるバーナードホームを創設したバーナードです。
3 工場法では、18歳未満の者の労働時間を制限することを規定した。
間違いです。
1911年に制定された工場法では15歳未満の労働時間を制限しました。
4 児童虐待防止に関する最初の法律は、第二次世界大戦前につくられた。
これが正解です。
虐待防止法の記事で詳しく取り上げます。
5 児童憲章は、児童の権利に関するジュネーブ宣言を受けて制定された。
間違いです。
児童憲章は1951年、ジュネーブ宣言は1924年(第一次世界大戦後の国際連盟による宣言)です。
第23回 問題137
子どもの権利に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選びなさい。
1 児童憲章は、国際連合が採択した「児童権利宣言」を参考に策定された。
2 「児童の権利に関するジュネーブ宣言」には、子どもの余暇や遊びの権利が定められている。
3 「児童の権利に関する条約」は、初めて子どもを保護の対象ととらえたことに大きな特徴がある。
4 アメリカにおける第1回ホワイトハウス会議(児童福祉白亜館会議)では、「児童は緊急やむを得ない理由がない限り、家庭生活から引き離されてはならない」という声明が出された。
5 国際連合が「児童の権利に関する条約」を採択した翌年に、日本はそれを批准した。
1 児童憲章は、国際連合が採択した「児童権利宣言」を参考に策定された。
誤りです。児童憲章は児童権利宣言より前の出来事です。
2 「児童の権利に関するジュネーブ宣言」には、子どもの余暇や遊びの権利が定められている。
誤りです。ジュネーブ宣言は、第一次世界大戦で被害を受けた児童の受動的権利に関する宣言です。
1924年に宣言され、時代背景を考えると、子どもの余暇や遊びの権利を定めるような内容ではありません。
3 「児童の権利に関する条約」は、初めて子どもを保護の対象ととらえたことに大きな特徴がある。
誤りです。児童権利条約は子どもの能動的権利を規定したことが特徴です。子どもを保護の対象と捉えるのはホワイトハウス会議の時代からです。
4 アメリカにおける第1回ホワイトハウス会議(児童福祉白亜館会議)では、「児童は緊急やむを得ない理由がない限り、家庭生活から引き離されてはならない」という声明が出された。
正しいです。セオドア・ルーズベルト大統領による声明です。
5 国際連合が「児童の権利に関する条約」を採択した翌年に、日本はそれを批准した。
誤りです。日本は児童権利条約を批准するまでに5年かかっています。
次の記事
次は児童福祉を支えている「児童福祉法」と「子ども・子育て支援法」を見ていきます。
コメント
児童虐待防止法は第二次世界大戦のあとではないでしょうか
?たびたびすいません。
児童虐待防止法は1933年に公布されました。当時は児童の身売りや母子心中などが発生しており、14歳未満の児童が対象となりました。